bible310(2)主権、み心、取扱い

  『初めに、神が天と地を創造した。』 創世記1:1

 長い間私はこの創世記のみことばをそのまま信じて来ました。そして確かに色々な祝福を受けて来ました。
しかし、一昨年の12月に頃にふと次のような単純な問いかけを自分の心の中に持ちました。

宇宙が造られた目的

「何で神様はこの宇宙を造られたんだろうか。」
それから長くこの問いかけは私の心の中から消えませんでした。
そしてある時私は神ご自身から次のように示されたのです。
「わたしは造りたいから造ったのだ。」
私はその時、強い力で頭を何かでガ-ンと叩かれたような気がしました。
それから暫くして私は、この短い聖句に含まれている大切な三つの事を教えられたのです。

 その三つのこととは、第一に「神の絶対的主権」第二に「神のみこころ」そして第三に「神のとり扱い」と言うことです。

 この事が教えられてから後私には聖書がかなり解りやすくなりました。
多くの事にこの三つの事を当てはめますと、解りにくいことが解ってきます。

アブラハムの実例

 実例の一つとして創世記22章のアブラハムがその一人子イサクを献げた事を考えてみると良く解ります。イサクを献げた事はすなわち、「神の主権」による「神のみこころ」であり、その後の事は「神の取扱い」であったと言う事です。
私たちの信仰生活にもいろいろな事が起こりますし、時としてはその意味がわからず、苦しいことが長く続くこともあります。
その時私たちの口から出る言葉は何でしょうか。
「どうして私にこんな事が。」
「これは何時まで続くのでしょうか。」
いくら祈っても神は答えて下さらない。
そんな時に、失望したり落ち込んだりせずに、信仰に堅く立つ秘訣は、先の三つのことを思い出し当てはめてみることです。
そうすれば、神ご自身がその絶対的な主権をもってなさるみこころには、無駄なことも、無意味なことも、無目的なことも何一つ無く、かえってすべてが必ず益とされることを覚える事が出来ます。
そしてそれは必ず感謝と賛美に変えられるのです。その事を覚えて歩みましょう。
なお、この三つの事に対応していることが、やはり三つありますが、それは次の通りです。
   1.神の主権…………神の主権に対する全き謙遜。
   2.神のみこころ……神のみこころに対する全き従順。
   3.神の取扱い………神の取扱いに対する全き忠実。

キリストの模範

この三つの事を模範として示して下さったのが主イェス・キリストです。
その事を、ピリピ人への手紙第二章から見てみましょう。

『キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イェスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イェス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。』 ピリピ2:6~11

驚くべきご謙遜

 主イェスが、人となられてこの世に来られたのは、御父がご自身の絶対的主権をもって、御子のために定められた事ですが、それは私たちには考えられないような驚くべき事です。
創造者が被造物の姿を取られると言う事は、何と言う驚くべきご謙遜ではありませんか。
人間は、人間以下の存在である生物、例えば、人間にあまり好かれないゴキブリのようなものになれと言われて、喜んでなれるでしょうか。
多分なれないと思います。
また、その様になったとしても、所詮、被造物が被造物になったに過ぎません。
しかし、キリストは神であられ、創造主であられます。そのお方が、被造物である人間になられ、しかも進んで、喜んでなって下さったのです。
 ここに、この地上には絶対に無い謙遜があります。それは主が、天から持って来られた天的謙遜と言うべきものではないでしょうか。

主のご謙遜と従順に関する預言と成就

この主のご謙遜と、第二の従順に関係する預言は、旧約聖書の詩篇にあり、その成就は新訳聖書のヘブル人への手紙にあります。

『あなたは、いけにえや穀物のささげ物を
お喜びにはなりませんでした。
あなたは私の耳を開いて下さいました。
あなたは、
全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、
お求めになりませんでした。
そのとき私は申しました。
「今、私はここに来ております。
巻き物の書に私のことが書いてあります。
わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。
あなたのおしえは私の心のうちにあります。」』 詩篇40:6~8

『雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。
ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。
「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、
 わたしのために、からだを造ってくださいました。
 あなたは全焼のいけにえと
 罪のためのいけにえとで
 満足されませんでした。
 そこでわたしは言いました。
 『さあ、わたしは来ました。
 聖書のある巻に、
 わたしについてしるされているとおり、
 神よ、あなたのみこころを行なうために。』」
 …このみこころに従って、イェス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」』 ヘブル 10:4~7,10

主イェスが示された従順

主イェスが示された従順もまた、この地上では見られないものです。
罪の全く無い聖なるお方が、罪とされて架けられる十字架、恥と苦しみとのろいの木に、主イェスは私たちに代わってついて下さり、死なれたのです。

『さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
三時ごろ、イェスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。』 マタイ27:45~46

 ここに罪の全く無いお方の叫びがあります。
主イェスは、ご自身の死の目的を勿論はっきり知っておられました。
ですから、罪人の身代わりにとして、十字架上で神から捨てられることも、ご承知であられた筈です。 それなのに、何故この様な叫びが、と人は考えます。
しかし、それは、罪のない方のみが叫び得る叫びであって、私たち罪人には出来ない叫びです。
ある人は言います。
「あの叫びは、滅びに入れられた者が、地獄で叫ぶ叫びだ。」と。
しかし、それは違います。
罪人がさばきを受けて、どんなに苦しんでも、それは身から出た錆であって当然の事です。ですから、「どうして。」と言う叫びは出せません。
あの叫びは、罪のない方のみが叫び得る叫びです。
そしてそれは、罪に対する裁きの厳しさと、聖なる神にとって、罪とは、いかに忌まわしいものであるかを示すものです。

神の取扱いに全てを委ねられた方

 このように、主イェスは、第三のこと、すなわち、神の取扱いに、全くご自身の全てをお委ねになられたお方です。ピリピ2:6~8は、イェスの下降の謙遜と従順を示す事がよく解ります。

しかし、私はもう三十年以上も前に、あるご兄弟から次のように教えられた事を、今思い出しています。

 その兄弟は言われました。
「日本人には、聖書の言う謙遜がなかなか解らないですよ。何故なら、日本人は自己卑下する事だけを、大体謙遜と考えていますからね。しかし、真の謙遜とは、私はつまらない者ですと言うことではなく、神の主権に全く従い、全てを委ね切る事ですからね。」と。

主のご支配に完全にゆだね切ること

それゆえに、低くされる事も謙遜であれば、それが神のみこころであれば、高くされる事に従うこともまた、謙遜であると言う事です。
その意味において、真の謙遜、従順とは、神の御手にすべてを全く委ね、神ご自身の取扱に任せきる事です。主の素晴らしい模範に学び、従いたいものです。
しかし、この様な謙遜、従順、忠実さは、私たちの中にはありませんし、また努力して出来ることでもありません。
 ではどうしたら良いのでしょうか。
聖霊ご自身のご支配に完全にゆだね切ることです。今しなさいと言われる事をする事です。
それが神の主権とみこころに従い、神の取扱いに身を委ねる唯一の道と信じます。