bible310(1)天地創造と科学

『初めに、神が天と地を創造した。』 創世記1:1

この短いみことばの中に、その後に続く聖書のすべての事が含まれています。

ですから、この一つのみことばを受け入れることが出来れば、聖書の残る部分のすべてを受け入れる事が出来ますが、この一つのみことばが受入れられないとその後のすべても受け入れられません。
それ程この一つの聖句に聖書のすべてがかかっていると言っても決して言い過ぎではありません。

三つの科学的事実

この聖句にはまず、三つの科学的事実が示されていますが、それは宇宙に関する事です。
通常宇宙は、時間と空間とエネルギ-から成り立っていると言われますが、この聖句にはその三つのものが明らかに含まれています。すなわち第一に時間ですが、それを示すのが「初めに」と言う言葉であり、第二に空間ですがそれは、「天と地」と言う言葉に示されています。そして第三にエネルギ-ですが、それは「神」ご自身が人格を持たれるエネルギ-であられると言う事です。
この様に、聖書は決して科学の教科書ではありませんが、科学を全く無視している宗教書でも無ければ、神学書でもありません。この事を偏見無く理解しておくことが聖書を正しく学ぶ前提となることは言うまでも無いことです。
また、これらの事は、他の人々に福音を伝える時に、神の言葉である聖書に対する誤解を解くのにも役立つと思います。私たちは聖霊ご自身の助けをいただいて聖書を学ぶとともに、そのお方の助けをいただくことによって正しく伝えることが出来ます。
そういう意味で、聖書をいろいろな角度から学ぶこともまた決して無益では無いでしょう。

実際の信仰生活との関わり

それでは、この三つの事は、私たちの実際の信仰生活には、どの様な関わりと教えがあるでしょうか。
そこで私は、この三つの事について少し考えて見たいと思います。

何時までも生きられない

第一に時間の事です。私たちはこの世界で何時までも生きる事は出来ません。
すなわち、人間は時間の制限の中に生かされている存在であると言う事です。
私たちは時間に制限されていますが、神は時間を超越されている方です。そして、神の言葉である聖書は、人の時間の制限を越えた、神の時間または、永遠と言う観点から書かれている書物です。
ですから、それを踏まえて読み、また学ばないと聖書は難しくて理解できません。人がその事を率直に認めてへり下り、真心から神に助けを求めて祈るなら、神は御聖霊の働きを通して、ご自身のみこころを示されます。その時、人はみことばを悟ることが出来るのです。
この地上の人生で、私たちに与えられている時間は限られており、しかもそれは、わずかです。

健やかであっても八十年

『私たちの齢は七十年、健やかであっても八十年。
しかも、その誇りとするところは、労苦とわざわいです。
それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
だれが御怒りの力を知っているでしょう。
だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。
その恐れにふさわしく。
それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。
そうして私たちに知恵の心を得させてください。
…あなたは人をちりに帰らせて言われます。
「人の子らよ、帰れ。」
まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、
夜回りのひとときのようです。
あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。
朝、彼らは移ろう草のようです。
朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。
まことに、私たちはあなたの御怒りによって消え失せ、
あなたの激しい憤りにおじ惑います。』 詩篇90:10~12.90篇3~7

神の望み

神は、一人一人の人間に生きる時間を与えておられますが、人はその与えられている時間の中で、まず神と出会い、御子の十字架と復活による永遠の救いを受ける事を、何よりも望んでおられるのです。
しかし、もし人がそれを拒むなら、死とともに永遠の滅びに入ります。それは、最も悲しく、また恐ろしい事です。故に、人は与えられている時間の中で、まず救いを受けるべきです。
人の一生として与えられている時間は、長いようであってあっという間に過ぎ去って行きます。
そして、一度それを失うと永遠に取り戻すことは出来ません。人は自分のいのちに対してすら全く無力な存在でしかありません。

呼ばわれと言う者の声

『「呼ばわれ。」と言う者の声がする。
私は、
「何と呼ばわりましょう。」と答えた。
「すべての人は草、
その栄光は、みな野の花のようだ。
主のいぶきがその上に吹くと、
草は枯れ、花はしぼむ。
まことに、民は草だ。
草は枯れ、花はしぼむ。
だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」』 イザヤ40:6~8

第二に空間=場所

第二に空間、すなわち、場所のことです。神は人間やその他の被造物の時間に拘束されてはいません。神ご自身は、それらの時間の外におられるお方です。
それと同じ様に、神はまた、人間やその他の被造物のように空間に縛られているお方ではありません。神ご自身は、すべての事において無限の存在であられます。
それゆえに、神は一切の時間や空間を越えて、何時でも、何処にでも偏在なさるお方であられます。この様な無限の事は、有限の人間には理解できません。それは人知を遥かにこえている事です。その神は、広大な宇宙の中の一つの星である地球を、人間の住まいとして創造されました。

『天を創造した方、すなわち神、
地を形造り、これを仕上げた方、
すなわちこれを堅く立てられた方、
これを形のないものに創造せず、
人の住みかに、これを形造られた方、
まことに、この主がこう仰せられる。
「わたしが主である。ほかにはいない。」』 イザヤ45:18

人の住まいは地球を含む天と地

ですから神は、人の住まいが、この地球を含む天と地に限られていると言われ、それにこだわられます。
この故に、御子イエスの死と復活による贖いによって、備えておられる贖われた者たちの住まいは、サタンと人間の罪と反逆による破壊と悲惨から解放され、回復された新天新地と定めておられるのです。
その新天新地のことは、新約聖書ヨハネの黙示録21~22章に書きしるされていますが、勿論、人間に理解出来るように、いろいろな宝石や金銀、真珠などを通して示されています。
それはそれとして、この天の御国の都の一番の素晴らしさは、神と小羊がそこにおられる事です。それが一番重要な事です。

『もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。』 黙示録22:3~5

主イェスは、十字架にかかられる前に、二階座敷で弟子たちと最後の晩餐を共にされましたが、その時、ご自分が備えられた住まい、すなわち、弟子たちを迎え入れて下さる父の家について、次のように言われました。

心を騒がしてはなりません

『「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』 ヨハネ14:1~3

間もなく、この主の約束が文字通り実現する日が来るでしょう。その日を待ち望みながら、ますます信仰の道を忠実に歩ませていただきましょう。

エネルギ-は力の神

第三の事は、エネルギ-、すなわち力の事です。神ご自身は、力の神であられますから、その意味において、神は、人格を持たれる偉大なエネルギ-であられると申しても、許されるでしょう。

『主よ。御力のゆえに、
あなたがあがめられますように。
私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。』 詩篇21:13

『神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。』 ロ-マ1:20

『しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。』 Ⅰコリント1:24

聖霊ご自身も力

神と主イェス・キリスト、さらに聖霊ご自身も、力であられる事を示す聖句は数多くあります。
神の力は偉大であり、神にとって成し得ないことは何一つありません。
確かにすべての生物には、それぞれに必要な力が与えられており、人間にもまた人間なりの力が与えられています。そして、人の力は小さな動物より大きいでしょう。けれども、より強く大きな動物に対しては人間は無力です。
しかし、人間には動物に無い知恵が与えられており、人は、その知恵を用いて強い動物にも勝つ力を生み出す能力を持っています。
また人間には、自然界にある力、すなわち風や水、波や電気、そしてさらに近代は原子力などの力を利用する知恵が与えられていますし、開発、利用して来ました。
またそれとともに、人間には物理的な力や機械力を発見、発明する能力も与えられています。
しかし、たとえそうであっても人はやはり有限の無力な存在であり、また、その力や知恵にも限界があります。特に、倫理的な事や道徳的な面においては人は驚くほど無力であると言ってもよいと思います。ではここに、使徒パウロの言葉をここに引用してみましょう。

『私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
…私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。』 ロ-マ7:19~20,24~25

この様に人間には弱さがありますが、それを最もよくご存知であられます神は、特に、神を信じる者には特別の力を与えて下さいます。それを見ましょう。

十字架のことばは神の力

『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。』 Ⅰコリント1:18

『また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』 エペソ1:19

主イェスは、福音の世界宣教に弟子たちを送り出される前に、無力で愚かな彼らのために、聖霊ご自身が力となられる事を約束されました。

『「さあ、わたしは、わたしの父が約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。』 ルカ24:49

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで、わたしの証人となります。』 使徒1:8

世界宣教

この力を受けて弟子たちは、世界宣教へと旅だって行き、今日のように全世界に福音が宣べ伝えられたのです。

そして今、その使命は私たち日本のクリスチャンにも託されています。しかし、この日本では現在のところ、福音が大きな力を持って伝わっていません。
ここに、神ご自身の悲しみがあり、神は今、神ご自身と心と思いを一つにして、神の力を受けて立ち上がる者たちを求めておられますが、それは私たちの祈りから始まるのです。
私たちは、あくまでも、神のしもべであり、かつまた、器に過ぎません。しかも弱くて力のない者たちです。
その様な私たちに、現在最も欠けている祈りは、主の絶対的な主権を徹底的に認め、主ご自身を主の位置に正しく置く祈り、すなわち、主の主権を全面的に確立する祈りであると私は強く信じ、また祈っています。

『主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。』 Ⅱ歴代誌 16:9

私たちの祈り

私たちは祈っています。祈り続けています。

「主よ。あなたは私たちの主であられ、私たちはあなたによって贖われた、あなたのしもべであり器に過ぎません。
どうか主よ。あなたがご自身の絶対的主権をもって、お定めになっておられるように、この三原の地において、あなたのご計画に従って、あなたのお心のままに、あなたのなさりたい事をなさって下さい。そしてその中で私たちを、あなたの思うままに、どのようにでも、どうかご自由に、意のままに用いて下さい。
そしてこの地で、あなたがあなたのみわざをなさって、ご自身のご栄光を現わして下さい。
あなたの素晴らしい力とみわざを、私たちに見させてください。私たちはあなただけを信じます。」と。

そして私は、自分の弱さや無力だけにいつも目を留めて、嘆いたり悲しんだりばかりすることを、神ご自身は決してお喜びになられない事、いいえ、それは不信仰という罪であり、神ご自身を悲しませること、すなわち、神に対して最も失礼な事であると教えられています。
この不信仰の聖めこそ、現在の教会とクリスチャンに必要な事であり、欠けてはならない事です。
そして、この事を正しく受け止めない限り、真の聖霊ご自身による聖化が始まらないと確信しています。
いのちに満たされた信仰とは、単なる観念や理念、思想や知識の問題ではなく、神ご自身によって取り扱われ、徹底的に砕かれることであると信じますが、それについて教えられ、必要を示され、渇き、求めない限りそれは始まりません。
こうした事について話しますと、「そうですね。」とか、「その通りですね。」と同意して下さる人はいますが、そうした祈りはあまり聞きません。
外国、ことにアジヤから来られる兄弟たちに、「日本の教会とクリスチャンたちは眠っているがその事に気づいていないし、気づこうともしない。早く目を覚まして欲しい。」と言われる理由があります。

韓国の兄弟の言葉

韓国の一人の兄弟が私に言った言葉を、私は決して忘れません。それはほんとに耳の痛い警告の言葉であったと、私自身は受け止めています。「私たちは日本の集会とクリスチャンたちに告げたいメッセ-ジを持っていますが、日本人の方が先輩だから、失礼と思って言いません。」と言う言葉でした。私はその兄弟に、「遠慮なく言って下さい。」と頼みましたら、彼は、「よく祈ってから考えます。」と言っておられました。
霊的な世界にも、確かに礼儀とわきまえは必要ですが、先輩後輩などの枠を越えない限り、主のみ声を正しく聞くことは出来ないでしょう。また、霊的先入観や伝統なども取り除かないと、主が与えようとしておられるこの時代に必要な真の祝福を受けることが出来ないのでは無いでしょうか。
今の時代に必要なのは、バプテスマのヨハネのような荒野から神のみこころを伝え、叫ぶ声では無いかと思います。

偉大なる神を賛美

最後に、万物の創造者であられる神の無限性、その絶対的主権を示し、かつ、神ご自身は、時間と空間を超越しておられるお方である事を示す聖句を覚えて、偉大なる神を賛美したいと思います。

『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見ことができない。』 伝道者の書 3:11

すべての事に時を定めておられる神のなさることは、すべて完全で、時宜を得ていますが、無限の存在者であられる神は、永遠と言う時間の中で、すべて計り取り行われますので、有限の存在である人間の理解を越えているのは、むしろ当然の事です。
それゆえに、人は神のなさる事のすべてを理解出来ません。
この神と人間の間のギャップを埋める事が出来るための唯一の必要は、有限の人間が無限の神に対して、絶対的な信仰を持つ事であり、また、人間は意思、知性、感情のすべてを持ってそれが出来るように創造されている被造物です。
その人間の価値を知ることは、人間存在の一つの大きな目的ですが、人は神への反逆の罪のために、その大切なものを失っています。
だから、人は、何のために生きるのかと言う事に、正しい答えを出す事が出来ません。私たちが、神に帰るとき、それを発見し喜ぶ事が出来ます。

すべての栄光、誉れ、賛美が父なる神と、御子イェス・キリストに、とこしえにありますように。